鯨と鮎川の歴史
敗戦後の食糧難の時代、日本人を栄養面から救ったのも鯨でした。鯨肉は栄養価の高い安価な食材として庶民の食生活を支え学校給食でも子どもたちの健康を育む重要なメニューとして供されてきました。昭和30年代までは国民一人当たりの食肉供給量において鯨が牛、豚、鶏を上回っていたことからもその恩恵がうかがえます。同じく昭和30年代には捕鯨が最も盛んだった鮎川には約10社の捕鯨会社が集まり、鮎川を含む旧牡鹿町には1万5000人超の住民がいました。バーや映画館、飲み屋などで大いににぎわっていました。ここで鯨・捕鯨と「クジラの町」鮎川との歴史を振り返ります。
日本での捕鯨の始まり
日本人と鯨類との関わりの記録は縄文時代にまで遡ります.石川県の縄文時代前期から後期にかけての真脇遺跡からは、小型ハクジラ類の骨片が多量に出土し、当時の日本人が捕鯨を行っていたことがわかります。また日本各地の他の遺跡や貝塚からも湾内に迷い込んだ個体を捕獲したと考えられるものを含め、種々の鯨類の骨が見つかっています。その後、16世紀後半の三河国(現在の愛知県)で捕鯨業が恒常的に始まりました。初期の組織的な捕鯨方法は、複数の船がクジラを追って銛で突く突き取り式と呼ばれるものです。三河国で始まった突き取り式捕鯨は、短期間で各地に伝わりクジラが泳ぐ前方に仕切り網を併用する網取り式捕鯨へと変化し、こうした捕鯨方式は古式捕鯨と呼ばれています。牡鹿半島では江戸時代末期に仙台藩が、牡鹿半島の沖合で捕鯨の試験的な操業を行ったという記録は残されていますが、結果は今後を期待できるものではなく、以降1906年に至るまで操業は行われませんでした。
鮎川と「商業捕鯨モラトリアム」
その後牡鹿半島での捕鯨業が始まったのは1906年です。山口県に拠点を置いていた捕鯨会社の東洋漁業株式会社(現在の日本水産株式会社)が鮎川に進出したことを皮切りに、当時国内にあった捕鯨会社12社のうち9社が牡鹿半島に事業所を設け、小さな町であった鮎川は影響を大きく受けることとなりました。1906年当時から捕鯨方法は前記古式捕鯨ではなく、捕鯨砲とよばれる、砲台を設置した捕鯨船を使用するノルウェー式捕鯨が使用されていました。鮎川は大きな商業捕鯨の時代に入りますが、1972年に国連人間環境会議において提案された、商業捕鯨の一時停止期間「商業捕鯨モラトリアム」と深く関わっていくことになります。鯨類の適当な保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を目的に設立した機関である国際捕鯨委員会(International Whaling Commission : IWC)は、当初商業捕鯨モラトリアムを否決したが,1982年に鯨類資源の回復のために商業捕鯨の一時的な停止を採択しました。商業捕鯨モラトリアムは1988年に発効し、IWC 加盟国において商業捕鯨が一時中断することになりました。このため、鮎川における商業捕鯨時代は、1906年から1988年までの期間といえます。
鮎川における商業捕鯨時代
1906年の東洋漁業株式会社の鮎川への進出以降、各地の捕鯨会社が続々と参入してきた当時は、捕鯨業は地元住民にとっての産業ではありませんでした。しかし、鯨の解体に伴う内臓や骨といった廃棄物の処理への対応に伴い、1907年には鮎川の住民で肥料売買営業免許を取得する者が現れ、さらに翌1908年頃から地元資本家達が肥料工場を建設して肥料の製造販売を始めました。そして、1925年には地元資本による鮎川捕鯨株式会社が創業するなど,次第に鮎川住民が捕鯨業へと参入することになります。1934年からは捕鯨船団による南氷洋操業も開始し鮎川から南氷洋捕鯨従事者が現れました。さらに、南氷洋での操業が始まったのと同時期の1933年には、小型であるミンククジラを捕獲対象とした小型捕鯨が誕生し,小型捕鯨はミンク船と呼ばれる小型捕鯨船で操業された.操業開始当時のミンククジラの価格は低く、企業的には成功しませんでしたが,第二次世界大戦中に大型捕鯨船が軍事利用のために徴用されてからは脚光を浴び始め、加えて、戦後の食料難のために鯨肉の需要が増えたことを受け、小型捕鯨は全盛期を迎えます。1949年頃の鮎川港では大型から小型のものまで多くの捕鯨船が停泊していました。鮎川と他地域においては密接な関係がみられました。例えば、ミンククジラを対象とした基地式捕鯨の操業は、鮎川に拠点を置く捕鯨会社が中心となりましたが,ミンククジラの漁期中に季節に応じて鮎川から青森県、北海道へと拠点を移動しつつ捕鯨を行っていました。そして、それぞれの拠点に各社が設けた解体場で解体、成形加工した鯨肉を市場を通じて、日本中へと流通させました。
調査捕鯨時代と商業捕鯨の再開
1988年の商業捕鯨モラトリアム発効後,日本は鯨類の生態や生息数などの科学的知見を集めるために捕獲調査を開始されました。2019年にIWCから日本が脱退したことにより長きにわたり行われた捕獲調査は終了しました。調査捕鯨時代中,鮎川は通算15年間基地としてミンククジラの捕獲調査を行い,鯨類の学術研究の発信地となりました。この期間は、これまで商業捕鯨の町として栄えた鮎川が、学術的側面を強めることとなった転換点になります。なお、鮎川でミンククジラと同様に長く捕獲が行われていたツチクジラはミンククジラとは異なり、IWCが定める管理対象種には入っていなかったため,日本が独自に捕獲枠を設けて操業を続けており,商業捕鯨時代から調査捕鯨時代,現在の商業捕鯨の再開まで、続けて商業捕鯨として操業が行われてきました。現在も、鮎川ではミンククジラとツチクジラを捕獲対象種として捕鯨業が行われています
昭和30年代の鮎川がそこに。映画「鯨と斗う男」
1957年公開 出演:佐野周二/高倉健/小宮光江/花沢徳衛/曽根秀介ほか
ストーリー
隼丸は数ある捕鯨船の中でも常にそのトップの収穫を上げる優秀な船であるが、人々は隼丸を地獄丸とも呼んでいた。それは人呼んで竜巻船長・権藤の無慈悲なまでの部下の仕込み方と、鯨を見つけたら最後、いかなる無謀な手段も辞さない姿が人々の反感を呼んで生まれた名称だった。そこへ新進気鋭の銛撃ち山上洋介が転任してきた。洋介の兄は有能な銛撃ちだったが、権藤のために命を落としていたのだ。権藤の隼丸と洋介の乗り込んだ快天丸は洋上に鯨を求めて、互いに収穫をあげようと死闘を繰り広げていった。隼丸の仁義を通さない獲り方は快天丸乗員の憤懣となって爆発し、しばしば喧嘩沙汰が持ち上がる。そんな鬼のような権藤だが、酒場カモメ亭のユキとは心に相通ずるものがあり、互いに好意を寄せ合っていた。
鯨肉の特徴と部位
高タンパクで低脂肪、しかも低カロリーのくじらは、いわば「おいしい健康食」です。近年では、赤肉に多く含まれる成分「バレニン」も、くじらの驚異的なスタミナの源として注目されています。鯨肉の刺身は、実はマグロにも引けをとらない濃厚さ。馬刺しよりも柔らかく、水分が多い特徴があります。皮や舌はしゃぶしゃぶやすき焼きに向いており、赤身は揚げ物にしても、旨味たっぷりで美味しく召し上がっていただけます。鯨肉の部位ごとの味や特徴をご紹介します。